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天気の子、ネタバレ込みの感想

月3しかない休みを使って昨日天気の子を観てきて、今日小説を読んだのでブログに書かんと浮かばれない。

 

今回は「天気の子」。

 

君の名は。」が大ヒットしたせいか、(まあそのせいだろうな)色々な交通機関とコラボやっていて会社に缶詰の私もチラチラ目についてはいました。

 

映画観に行くか~、と約束していたので観に行きましたが、結論としていうと

 

やはり新海誠監督の映画って一人でヘッドホンつけて、缶チューハイ片手に観た方がいいんじゃねーの?

 

 

ってことです。なんかいつも非日常がカットインしてくるので、映画向きのテーマな気がするんですが、いつも独りよがり。それがどっぷり浸かれる環境で観た方が響く気がするんですよね。(ディスってないです。むしろ褒めているんです)

 

だから監督が、小説のあとがきや公開コメントでも出してた「褒められないことをやった」みたいな件、おそらく「世間の道徳」や「常識」みたいなものより自分の「正義(監督の作品で言うと愛とか恋、なのかもしれない)」を選択するみたいなことだと思うんですが、監督のいつも一人の人間のために作品が動くストーリーだった気がするので「え、今言う?」みたいな気分になりました。そしてどんな映画も大体そうではないかい?(ドキュメンタリーや史実系のテーマに沿ったもんじゃなけりゃあ)銃が落ちてたら瀧くんだって悩んだ挙句にぶっ放してたくらいに三葉のこと想ってたでしょうに。(適当)

 

わかってます。偏ってるのよ、愛情が。

RADが歌ってる「世間が全部敵でも僕は君の味方」みたいな価値観毎回伝わってるから!!

 

そこが主に「秒速」頃から主に男性陣のハートをつかんでいるんだと思いますよ。

でも今の日本ってSNSがお盛んな分、倫理とかを破るテーマの時に「賛否両論になるかも」と布石を打っといたのは正解かもしれません。

 

まあぐだぐだ全体のまとめばかり話していてもよく分からんので細かい話をしましょうか。あらすじはググってください。あくまで鑑賞後向けの感想です。

 

【登場人物は3人】

新海監督の作品の特徴は勝手に、「独りよがり」だと思っています。「君の名は。」「天気の子」は結ばれているので「二人よがり」かもしれませんが。

今回のパーソンは3人の「子ども」。

1人目は間違いなく森嶋帆高。彼の成長の物語であることは間違いないです。

そして2人目はキーパーソンというよりコイツの物語なのでは?というレベルにしゃしゃってくる須賀圭。

そして最後は図らずかもしれませんが夏美。というよりは小説版では「ただのキレイなお姉さん」枠じゃなくなっており、無視できません。正直陽菜に「人柱」の話をしたことに裏があったのでは?っと映画では不信感がわきましたが(須賀が帆高を追い出した後の夏美と言い合いになった時)、小説版では夏美の心情が丁寧に書かれていたおかげで納得できました。

この3代の子どもをいれることで全年齢に向けた作品になりました。

陽菜はヒロイン。凪先輩は映画で魅力的に描かれていますね。

 

・帆高の話

フェリーで東京にやってきた帆高。最初は土砂降りの雨に喜ぶ姿が印象的でしたね。これはのちの「大雨が降る=陽菜が生きている」ということのアンサーが最初に来ているのかなあ、と思いました。後半には雨が降っていて喜ぶような描写は陽菜に会うまでないですし(会った時も直接的な表現はないですね。これで喜んでたらSNSで「不謹慎です!」とか言われてそう)、いくら島を出て開放的になったと言えどわざわざ雨を待って豪雨を喜ぶというのは不思議だな、と感じたからです。加えて乗客島でもモブの話から島でも台風だったりと最近天気がすぐれない日が多かったことが分かるので「特別な天気でなかった」ことも分かります。

帆高を語るのに外せないのが銃。こいつが今回「世間の道徳や常識」よりも「個人」が大切を語るためのキーとなっています。「まさに人生を棒に振っちゃっている」彼ですが、本質的に「人生を棒に振っている」のは自分の大切なものを見失って「大人」になった人たち。「賞罰無しと書いたら経歴詐欺になるという単純な事実だけ」が、自分の正義を貫いた帆高に残ったわけです。銃の一発目(というよりは構えた理由、と言った方がいいでしょうか)は「他人を救うために良かれと思った」パニックによるもの。その際に陽菜にこっぴどく叱られて銃を捨てます。捨てた時点で、クライマックスに拾うことが確定されるわけですが。(映画の法則)

さて、「気持ち悪い!人を殺してたかもしれないのよ!」と陽菜に怒られたにも関わらず帆高は再び銃を手にとります。一見こちらも陽菜のためのようですが、「なんで邪魔するんだよ」という言葉から「世間のためにと、個人を無視する世間に対する嫌悪」と「陽菜がいる世界を選択する帆高」のためのように見えました。特に前者は須賀に向けて2回銃を構えるシーンがあったからです。この2回のシーンがあるからこそ、帆高という人物に深みが出るのかと。基本わからないことはネットの知恵袋。自分の感情を他人に指摘される、そしてややヘタレ。ただ地元に戻りたくないという強い思いが支えだったので、個人的には小説版で逮捕後戻って「周りともすんなり馴染めた」表現はなかった方が嬉しかったなあ。実際に地元が嫌な人っているじゃん。まあ陽菜の事件と比べたら地元でのことも大したことない、と言いたいだけなのかもしれませんが。

そして最後、陽菜にかける言葉をモヤモヤ考えている訳ですが、実際に陽菜を見て、「陽菜を選んだ世界が間違えではなかった」と自分の正義を正しいと感じる、陽菜一人の物語ではなく、きちんと「ぼくたち」の物語になるんですよね。ここらへんの流れはキレイで好きでした。

 

・夏美の話

典型的、自分の社会的ポジションで悩む大学生。(大学生だったのか)切り替えもうまくいかず就活がうまくいかない。行き詰った生活の中、小説の中では突然現れた帆高に感謝していていました。モラトリアムの延長、彼女にとっての最後の夏だったのです。「世間とのズレ」を感じる彼女が「大人になりたい」という陽菜を眩し思った流れや最後に帆高や陽菜が憧れる大人になることを決意することなど、視覚的な魅力は小説版の方が味わえます。まさに世間一般的にも子どもから大人になるためにもがき苦しむ年齢です。

 

・須賀の話

なんなんですかね。この人(笑)。サマーウォーズでいう侘助ポジションみたいな感じですね。帆高が陽菜を想うように、彼にも大切な奥さんがいました。ただ、長い時の流れで彼はすっかり「大人」になってしまいました。「まだ引き返せる」と帆高を諭したり「大切なものの順番がある」、夏美に言い訳したり。ただ結局自分が傷ついて酒を煽るように「大人になりきれていない子どもな」大人が須賀です。メインすとーりーは勿論帆高が持っているのですが「人一人いなくなって天気が戻るならそっちの方がいいと考える世間(考えるようになる大人)」に近い彼が「その人一人が自分の愛する人ならば、本当にそうなのか」と気づく流れの方が視聴者に訴える力が強いかと思います。

高校を卒業した帆高にもつれない態度ですが、最後に「世間はもともと狂っている」の言葉を送った彼が「世間的な大人」の殻を捨てたのは間違いなさそうです。というかおそらくその「世間」というものに合わなくて自堕落な生活を送っていたようなもんなので、本当に島を飛び出した帆高とそっくりなのかもしれません。

 

【映画と小説で感じた祖語】

実は陽菜をつれて帰ってきて、帆高と陽菜が倒れていた時、母親のブレスレット(陽菜はチョーカーにしていましたが)が割れていたので、伝承ということや盆という設定もあり、母親が陽菜を守ったと思ってたんです。

というのも、池袋のラブホから陽菜が消えて、指輪を落とす儀式が終わったならもう消えてもおかしくないなあ、と。他の巫女や晴れ女の影もいないし、本当に水分になっちゃうんかな、と。思っていたんですが、帆高が迎えに来るまでスヤスヤ寝てたんですよね。どういうことかな、と。母親がとどめてくれたのかなあ、と思ったんですが小説ではチョーカーの下りないし。てか盆でかーちゃんが下界降りてたら、彼岸にはいないのでは?と色々謎めいてました。だからこれは完全妄想なのですが巫女って本当に「人の願いを叶える」役割だったのかと。陽菜は消える直前に帆高に「雨がやめばいいと思う?」と聞きます。その願いを叶えて消えた、はずだったのですが願う帆高の本当の願いは「晴れよりも陽菜がいい」でした。そのおかげで陽菜が消失前にとどまり、帆高(最後の依頼者、願いが叶っていない)が陽菜の前に行けたのかな、と。妄想です。

あと竜神は雨。晴れをつかさどる稲荷がいないから雨が降りっぱなしなの(冒頭女占い師の話より)?鯨は?鯨はなに?ってここの謎はよくわかんないのでご意見募集。

 

さてつらつら書きましたが、フツーにアニメ映画として楽しめました。街並みはさすが。雨の音と表現は言の葉の庭張りに美しい。空は実は普通でした。花火大会の夕日の回だけキレイに思えました。(そういえば、きのこ雲みたいなのに盆だから?!とびっくりしましたがあれ、積乱雲の一種らしいですね。大雨が降る前のものらしいです)

正直前に「海獣の子供」を観てひどく感動してしまったので

感情のベクトルが降り切れずに残念でした。(空(宙)と海、壮大な話と初めて観る見せ方のインパクトがすごい)

悩んでいる人には家で観ることをお勧めします。

 

オチはないまま今宵も締めさせていただきます。