病人と老人と、暮らす話⑦
もうあっという間に年末ですね。
母親が死んでもうすぐ4年経ちます。
もう大分色々なことを忘れていますし、
正直書く意味あるのかなあ、とも思いますが
思い返してみればそもそも私が文を書く意味なんてありませんし、
年をとって、
誰かに何かを届けたいという気持ちが
如何にエゴイスティックかということを知りました。
別にそういう活動をしている人が悪いとかは
全然思っていないです。
ただ、私はその「誰か」の「何か」にとって代わることは恐怖なんです。
だって人の人生の一部なんて私には荷が重すぎる。
喜びより先に腹痛がくるね。
そういった私は、壁に向かって
過去の私に語りかけるしかすることがないのです。
タイトル通り続きを書きます。
母の再発がわかり、セカンドオピニオンを受けることをすぐに決定した。
定期的に通っていたのに、母の咳を報告していたのに
そこの婦人科はあまりにも対応が悪かったように感じた。
元々は通えるから県内の病院がいいと考えていたが、
私たちはせっかくセカンドオピニオンを受けるなら、と都内のがん専門病院に決めた。
本当は大学病院も検討したかったが、治療費・入院費・部屋代だけみても公立や国立病院の2倍だったので、とても治療をできる環境とは思えず諦めた。
例え一時的に治ったとしても、癌は転移するし、今まさにその状況だ。
長く付き合える病院を選びたい。
セカンドオピニオンを受けることを伝えると、主治医は明らかに機嫌を悪くし(最もこの男が機嫌がいいのなんて見たことない。私たちは色々質問するし、うるさいんだろう)、書類の準備をずるずると遅らせた。
頻繁に電話することで、なんとか用意してもらい、私たちは築地の病院へ向かった。
でっかいでっかいその病院に着いた私たちは、待合室で溢れる人々を見ながら、
「ああ、この人たちみんな癌でここにいるんだ」
とぼんやり思っていた。私たち、と書いたのは姉も母も同じことを思っていたからだ。
セカンドオピニオンを受けたい、と相談してから分かっていたことだが
毎日これだけの患者をさばいているのも納得の対応の早さで、来院した私たちは丁重に扱われた。(ここの病院にはセカンドオピニオン用の窓口があって、そこの窓口の人はとてもやさしい)
そして定刻になると、女性の先生がやってきた。
30分の会話で3万円だ。
向こうも「無駄にはできない」と早口で説明し出す。
結果的に、現在通っている病院の手術や抗がん剤の処置は、こちらの病院でも同意見であったことや、やはり母はステージⅣであることはほぼ間違いないことや、こちらの病院では治験が試せる可能性がある、とのことを言われた。
他病院を責めることさえは言いはしないが、隠し事をせず(副作用の説明など)言いよどむこともない。人によっては少し冷たく感じる人もいるだろうが、今の担当医よりずいぶんしっかりした先生に見えた。
母が最後の方に「今の先生が信用できない」のようなことをぽつり、とつぶやいた際に「じゃあ、こちらにいらっしゃい。私が担当しましょう」と先生が即答した。
こんだけ患者がいたら、忙しいだろうに(実際先生は部屋周りの間をぬってこちらに来たようだった)商業的なうちに来い!と言う感じではなく
「担当医を不振がっていながらの治療は、後悔するので」
ということをさらりと言った。
実際私たちは先生のこの言葉で転院を決定し、結果としてそのまま県内の病院に居続けるより良い方向にいったと今でも思う。(母はその場で「お願いします」と言い、私たちは誰が金を払うと思ってんだと顔を見合わせていた)
私がすんなりと母親の死を受け入れているのは、当時できた範囲ではあるが母親への治療費を惜しまなかったことが大きいと思う。
金があればもっと、と思うこともあるがそれが当時できる私の精一杯だった。
本人が転院したいというならばそうすればいい。
当時、私はハラスメントだらけの会社を退職して超安月給のIT会社に就職したばっかりだった。
貯金を削りながらの生活が始まった。
続きはまた今度。