居酒屋 焦げ鍋

お通しは焦げました

※ネガティブ注意

鎌倉スラムの子どもたち

お久しぶりです。

更新がずいぶん遅くなってしましました。

言い訳を始めます。

一つとしては小説を書いてました。

文フリに出るそうなのですが

自分は行ったこともなく、少しわくわくしております。

この歳になっても初めて経験できることは無数にありますね。

二つ目としては転職しました。

休日が減りましたが、がんばります。

さて、今日は出身の話。

「ご出身はどちらですか?」

と聞かれることが時々あります。

その時は「神奈川」と答えるようにしていますが

大体次の質問は

「神奈川のどちらですか?」だ。

これは恐らく神奈川を訪れた人が多く、

話が広がるだろうと踏んで質問してくれる気遣いのせいだ。

そんな時応えるのは

「生まれは鎌倉のスラムの方です」と。

人は笑う。鎌倉にスラムなんかないでしょう。

そうだ。

鎌倉にスラムなんかない。

でも私たちの心にスラムはあった。

 

ずいぶん前から鎌倉の所得格差は指摘されていた。

地方新聞や情報誌などにちょこちょこ掲載されてはいる。

他の人の事情は知らないが、うちの母は

「鎌倉という環境の良い場所で子どもを育てる」

ことに憧れた女である。

しかし、引っ越しを3回せざるえなかった身からすれば

眼を覚ませ!と一発ひっぱたいてやりたい。

母はもちろん「鎌倉風」の「いい暮らし」にも憧れている。

分別も分からないうちに子どもに高い服を着せて、

無農薬の高い野菜をわざわざ鎌倉で買ってきて、

訳のわからん高いミネラルウォーターを買う。

 

悪いわけじゃない。

収入と支出が釣り合ってた場合は、だ。

 

親父の収入は減り、車を手放し、

近隣に響きわたるレベルの夫婦喧嘩は毎日になり、

親父が私のダイニングチェアーを叩き割り、

母は鬱だと言ってパートを辞めて家に引きこもり、

引きこもっているのに家はどんどんゴミ屋敷化していき、

私は借金取りに学校帰りをつけられたり、

姉も引きこもり部屋から出なくなった。

だいぶ幼い内から心は荒み出したのも仕方ない。

今幼いころ、泣いてばかりいた自分の肩をたたいて

「おつかれさん」と言ってやりたい。

結果的に私は自殺もしなかったし、グレもせず、引きこもらず、

平気だった。

というのも実は似た境遇の子たちが学校に多くいた。

噂も、実際に見たこともあってみんながみんなの事情を

なんとなく知っていた。

辛かったけど、家のことで馬鹿にする子はいなくて

寂しくなかった。

私の小・中の学校は過去の素行の悪さで有名で、

学区のせいで通わせるなら引っ越しする、というのが鎌倉の親だった。

しかしそうできない。むしろこの学校でしかやっていけない。

そんな私たちが「鎌倉スラムの子どもたち」。

姉は私の学校に通わなかったが故に苦しんだ。

(私も小・中は受験させられていたが単純に頭が悪くて落ちた)

私が過去をあけっぴろげに話すのとは対照に

姉は今でも昔のことを人に話すことを躊躇う。

それは彼女が若い時、家のことを愚痴る相手がいなかったからだと、

私は勝手に推測している。

それは彼女のシコリであり、

いつか溶ければ、

そう願っている。

 

「鎌倉いいですね」

「お嬢様でしょ」

そんな風に言われると鎌倉スラムの子どもは胸が痛む。

少なくとも私は鎌倉の高い家賃や物価に苦しめられたかのような、

苦い思い出があるのだ。

もちろん鎌倉はいい場所だ。

自然がいっぱいで、寺や神社がある。

辛い時はなんどもその場所にたちに慰められてきた。

でも、私は生涯父親と母親から

お小遣いというものを貰ったことがなかったし、

欲しいものがある時は、

ご飯を作らなくなった母親から渡されたご飯代を使って

ご飯を抜いていた。

もっともっと貧乏な人ももちろんいるのだろうけど

父親と母親の虚栄で、高級住宅街に住むのは、

家の中のギャップと外のギャップが激しくて

本当にお金持ちの人たちから蔑まれて

しんどかった。

みんなが思う鎌倉とはかけ離れている。

 

色々あった鎌倉を離れたのは18の時だ。

金銭的にも、近所トラブル的にも鎌倉にいれなくなった。

(父親は15の時に家を出ていたが、サイコパスなので近所の犬にちょっかい出しにうろうろしていて通報されたりしている。アホだ。)

 

今でも鎌倉が懐かしくなる時はあるけれど

もう戻ることはないんだろうな、と思っている。

私が生きるのは鎌倉じゃない、と思うアラサーの話。

 

オチはいつも通りございません。

次回は映画を観たので感想を書けたらいいなあ。

おわり。