病人と老人と、暮らす話⑥
私の今の日常は忙しい。
というのも仕事柄。
数日前3年前の母親を撮った写真がFacebookで上がってきた。
そうか。3年前まではまだ生きてたんだな、と思い出した。
Wi-Fi環境も整ったので
(ブログが止まってたのはほとんど家にいず、寝に帰るだけだったので。少し落ち着きました)
久々、このブログ読んだら私が母親を恨んでて笑いました。
もうわかっていることですが
家族や親族って身近な社会で、人に愛されたり恨まれたりされやすい。
でも
死んだらもう何もできない。
死んだ直後はわちゃわちゃ処理(主に借金系ね)追われたり、
母親の知人に会ったり色々モヤがかかったような状態でしたが
もう3年も経つと、私も私の人生を歩きだしている。
今日も生きてますね。
ずいぶん時間が経ってしまったけど、再発の話からなので区切りがいい。
母親が手術・通院して(私たち姉妹の金で)、1年が経とうとしてた。抗がん剤治療をしてたこともあり、一通り治療のクールが終わっても食事には気を付けていた。
でも、本当に手術から1年経ったあと、再発が伝えられた。
きっかけは咳だった。咳が止まらない。
病院(というか担当の婦人科だ)に「変だ」と電話しても、相手にせず「自分で」「呼吸器科」にかけてと言うだけだった。
同じ病院だが、呼吸器科に連絡を取ると対応は迅速だった。
すぐに来てくれと言われ、母が寝られるよう簡易ベッドを用意してくれ、診察時間を繰り上げしすぐに写真を撮った。
先生の判断も早く「一部をとってみないと断定できないが十中八九転移」という診断がされたのだ。
残念なことだがほぼ毎月、治療・検診には言っていたのに、異常な症状が出るまで転移に気づかなった。
書いたかどうか分からないが、私の母の子宮体がんはステージⅠかステージⅣかという際どいところであった。(腫瘍自体が体についているようにみえるが内臓や脂肪に侵食している様子は確認できない。ただリンパに転移していたら写真じゃわからない、というもの)今回のことからすると、子宮全摘出して、念押しで一番メジャーな抗がん剤をうったがこうなったことから「リンパに移ってた」と判断できた。
後日腫瘍の一部をとる手術を行ってもらったがあっという間で、母もあまり痛がらずに済んだ。(背中から、日本の針みたいなのを指す手術)というのもこの病院、呼吸器科においてはがん対応の件数がかなり多い病院だったのだ。
婦人系のがんには弱いけど、呼吸器科の人々は看護師含めてエキスパートだったようだ。(当時の話しになるが)
患者から呼吸器科にかけさせたことと、おそらく転移への気づきが遅い、対応もしないことで呼吸器科の先生から怒られたようだった担当医はめちゃくちゃ機嫌が悪く、
あとは子宮体がんで使用される2種類の抗がん剤をつくるしかない、とそっけなく言った。
しかしこの時点で私と姉は「呼吸器科の先生にやって欲しいくらいだ」くらいの気持ちで、担当医に不信感を抱いていた。
ここでセカンドオピニオンをかけることを即決する。
というのももう一つ理由があって、
母親が病気にかかってからいろんな情報を拾って耳年増になってた私たちは、
最初の抗がん剤が効かないと子宮体がんの致死率は一気にあがることを知っていたからだ。
残り2種の子宮体がんで消える人は実に少ないのだ。
ここでしっかりと母の死が見えてきた。
私は母親のことが好きだったのか今だよくわからず、死んだ後に死んでくれてよかったのかもしれない、と思ったが彼女が病気中に「死んでしまえ」と思うことは不思議となかった。
人間が現金なもので、死への一本道しか見えなくなってしまった人間には
簡単に「死ね」と思わなくなるようだ。
生きるの1回、死ぬのも1回。
これが唯一、我々に与えられた平等である。
(生きてこの世に産まれた人のみの特権だ)
自分の1回の死はいつになるかな、とぼんやり考える時は
内臓が冷える。
それまでに何をすべきだろうか。
私は今年30歳になるが、貯金は全然ない。
商社は就職していたが、家に金を入れたり家賃を払っていたりで、その中でも雀の涙ほどの貯金は母親の治療・引っ越し・葬式で消えた。
今は生活を立て直しているが商社の時ほど給料も貰えておらず、奨学金と引っ越し代を方々に返すばかりの生活だ。
でもお金が貯められるようになったら、自分の散骨代をまず貯めようと思う。
独身なのでだれがやってくれるかわからないが、紙に書いておこう。
次回は初めて「がん専門」病院に行った時の話。
毎度オチがなくてすみませんね。